サウナと二郎とサンマの肝の話
ここ数年で、世間でもサウナ好きが急増しているんだけど。
本当にそんなにサウナって良いか?
僕も嫌いではないけど、鼻息荒く公言するほど好きでもない。
サウナ入って水風呂入ってを繰り返した最後に外の風に当たるやつでしょ。
整うってやつでしょ。
やったことあるよ。確かに体中がボワァ~として気持ちよかったよ。
でも、水風呂がシンドい。ときどき息が詰まって死にそうになるんよ。
「あれが良いんだよ。しばらく入ってると冷たくなくなるよ」
分かってるよ。
でも入る勇気が嫌なんだよ。
一日の疲れや嫌なこともすべて洗い流して、温かいお湯でゆっくり心も体も溶けるように癒やされようとしているところに、なぜ過酷な滝行みたいなことをしないといけないのか。
その先にある快楽を求めてるのかもしれないけどさ、銭湯に山登り的な快楽なんていらないよね。
そんなに“その先の”が欲しいんだったら、司法試験合格した快楽のために必死に勉強でもしたらどうだろう。
「いやでも副交感神経がどうのこうので、健康にもとても良くて・・・」
いいわけないだろ、俺の体が拒絶してることが体に良いわけないだろ。
思い出した、二郎ラーメンにも同じことを思う。
あれの魅力も、あの大盛りを食べきった達成感みたいなものが大きいような気がする。
だってそこまで美味しいわけじゃなくない?
じゃあ半分の量ならと思って食べたことあるけど、そもそも丁度いい量なら二郎じゃないラーメンが食べたい。
サウナの話に戻すと、僕の好きな銭湯の使い方は、
体を洗う→ゆっくり湯船に入る→外に出てみる→露天風呂に入る→温まったら縁に座って足湯→寒くなったらまた入る→飽きたら室内に戻る→「サウナでも入ってみようかな」→隣のおっさんと心の中でどっちが長くいれるか勝負する→おっさんが出たら少し時間を置いて俺も出る→軽く体を流して外に出る→足湯しながら体を冷ます→クールダウンしたら肩まで浸かる→上がる
これよ。
僕もサウナも二郎も友達とかには、「いいよね~」と同調してはいるんだけど、実は違う。全然違う。
ステーキに添えられた人参みたいなもん。
嫌いじゃないけどあってもなくてもいい存在。
でもないと寂しい存在。
昔、お父さんがサンマの肝を「ここが一番美味しいんだよ」と言って食べてたのを、「嘘つけ苦いじゃん。大人になりゃ旨くなるかもしれないけど、それでも一番は言い過ぎ。やせ我慢してカッコつけてるなぁ”と思ってたんだけど、それと似てる。
人の好みなんて十人十色だけど、
ぜったいやせ我慢している人は想像以上にいると思う。
みんな流行とかで無理せずに、本当に好きなことして生きていきましょうよ。
ブログが楽しいかどうか分からないからブログを始めた。
ブログを始めてみる。
人の目や反応を意識しながら生きているが故に、
思ってはいるけど人に伝えても仕方がないことが沢山ある。
とは言っても、普段から人の目を気にしまくりながら生きているわけではなく、
比較的言いたいことは言えている方だとは思うのだけれど、
なんかこう、あるじゃん。
カッコいいわけでもなく、笑えるわけでもなく、キレイでもなく、正しくもない、自慢でも自虐でもなく、意表もついていない何でもないことって。
どんな会話でもSNSでも、
人からスゴイね、偉いね、楽しそうだね、素敵だね、面白いねというリターンを欲して表現をするものだとは思うんだけど、
そのどれでもなく、むしろ自分の中では少しダサくて恥ずかしくてバレたくない感情や思考。
いわば“すっぴん”みたいなもんだね。
そんなことを書いてみようと思う。
「隠したいならいちいちブログで表現すんなよ」
とは思うんだけど、
僕の好きな番組で、
NHKのno art no lifeという、発達障害の人をメインにフィーチャーして彼らの描くアートやその様子を密着した5分番組があるんだけど、
彼らは総じて、人の評価などはお構いなしに自分の描きたいものをひたすらに夢中で描き続けているんだよね。
そもそも今作っているものがアートだとすら思っていない。
周りの評価も、忖度もなく、自分しか理解していない、むしろ誰かが理解できるかどうかもどうでもいい、そんな彩られた何か。
それが僕にとってはとても興味深く、
「これこそが人間の本質なのでは?」とさえ思ってしまったぐらい。
そこで、彼らのように僕も何かを気の向くままにやってみたいなと思った。
人知れず絵を描いたりもしようとも思った。
それでも、やはり僕は未熟で、何をやっても人からどう思われるかを意識してしまう。
だからブログにした。
ブログなら、誰かが見ているかもしれない、でも誰が見てようが見ていよまいがどうでもいいっちゃどうでもいい。
人を気にしてもいいし気にしなくてもいい。そんな空間なんじゃないかと思った。
僕の中の点数の付けられない“採点不可”の思考、付けるとしたら0点であるからこそ、周りには少し恥ずかしくて隠したい思考をここに残そうと思う。
いつか、障害者アートの彼らのように本当の意味で周りを気にせず表現できるようになりたい。
ここはその練習みたいなもん。